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盧溝橋事件からはじまる |
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日中戦争は、1937年(昭和12年)7月7日夜、盧溝橋事件を発端としてはじまりました。日本政府はこれを「北支事変」や「支那事変」と称し、宣戦布告をしませんでした。このとき、日露戦争以来の戦時最高司令部である大本営を設置し、70〜100万もの兵力を投入するほどのものとなりました。
このあと、さらに華北を「第二の満州国」にしようとする動きがはじまり、盧溝橋の停戦協定がなされた後も、さらに日本政府は総攻撃を行い、北京・天津一帯を支配しました。さらに日本国内では拡大論が広がり、南京を空襲し、占領するにいたりました。このとき捕虜や一般市民に対しておびただしい数の略奪、放火、性暴力を起こしました。これが一般に言われている南京大虐殺です。この犠牲者の数は、いまでに正確な数値がわかっていません。
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戦争の泥沼化 |
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南京を占領した日本軍は、外交交渉の道を自ら閉ざしました。と同時に、軍事力によって中国の蒋介石政権の屈服を目指して大規模な作戦を連続しておこない、中国各地の工業地帯の大部分を占領するにいたりました。しかし、蒋介石政権は抗戦を続けてゲリラ戦を拡大させました。そのため、日本軍は軍事動員力が限界に達し、軍隊教育を受けていない人間をも招集するほどになり、軍としての状況は厳しいものとなっていきました。
それを打開するために、日本軍は1938年以降に重慶に対して海軍が主体となって無差別戦略爆撃を繰り返しました(重慶爆撃)。一方では、ソ連に対する挑発も続け1938年には張鼓峰事件、1939年にはノモンハン事件をおこしました。
また、軍として厳しい状況におかれた日本は、1938年国家総動員法を公布し、国民精神総動員運動などによる言論統制や戦争に協力させる措置が多数とられました。
中国での戦火の拡大は、英米などの諸外国の権益を脅かすものとなり、これまでのアジアの秩序を壊すものとなっていました。そのため、英米ソなどの諸国は、蒋介石政権を全面的に支援するようになりました。これに対して日本は、諸外国の援助(この支援路を「援蒋ルート」と呼んだ)を遮断しようとして力を注ぎました。1939年には、海南島・南寧などを占領し、1940年には仏領インドシナ北部にまで進みました。しかし、これがきっかけで英米との対立がさらに強まる結果となりました。
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| ■ 日独伊三国同盟と南進路線へ進む |
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