|
|
 |
 |
参戦 |
|
|
日本は、ヨーロッパで戦争がはじまるとすぐ(1914年8月)、ドイツに対して宣戦布告しました。以前イギリスとの間に日英同盟が結ばれていたので、これを大義名分として参戦する形になりました。イギリスから、アジアの海域におけるドイツ艦艇を掃討することを要請され、これを口実に中国山東半島のチンタオだけでなく、山東鉄道や太平洋のドイツ領の諸島を11月までに占領するに至りました。 |
|
 |
 |
アジアでの優越権強化 |
|
|
また、欧米諸国がヨーロッパに力を注入しているこのとき、つまりアジアのことをそっちのけにしているときに、日本は中国における権益拡大をはかりました。この時期には、中国情勢も大きく変化しつつあり、1911年には辛亥革命によって清朝が崩壊したり、1912年には孫文を率いる中華民国が成立したりしました。この頃の中国は、革命勢力と、軍閥勢力が武装闘争していて、国家情勢は安定しているとは言えない状況でした。その中で、日本は、1915年に「二十一か条の要求」を袁世凱政府におこない、要求の大部分を認めさせました。要求の内容としては、山東半島におけるドイツ権益の継承、関東州租借期限と満州鉄道権益の99ヵ年延長などの、満州南部と東部蒙古での日本の優越権強化です。 |
|
 |
 |
シベリア出兵 |
|
|
また、この時期に日本が行った膨張戦略の中に、シベリア出兵があげられます。シベリア出兵は、ロシア革命に対する英米仏の共同干渉戦争でありました。シベリアにいるチェコ軍捕虜の救出を大義名分にして、反革命勢力を支援しようとするものでした。日本は、3カ国との協議の結果、兵力12,000人をあてられました。しかし日本軍は、これを大きく上回る73,000人もの兵力を東シベリアに出兵させました。この出兵の目的は、朝鮮や満州への革命運動の波及阻止や、あわよくば東シベリアを占領して領土化するといった考えもあったようです。しかし、共同干渉は失敗に終わり、1920年に英米仏が撤退しました。しかし日本は続けて派兵をおこなったため、政府内外から批判の渦にまかれ、1922年にシベリアから、1925年には樺太から撤退を余儀なくされました。 |
|
| ■ 第一次世界大戦の勃発へ進む |
|